十組十色の暮らし模様|小説「三人暮らし」
20代女性同士が同居を始めたり、
独立した娘2人が転がり込んだり、
たまたま神社で知り合った人を自宅へ呼んだり、
いろんな組み合わせとシチュエーションの三人暮らしが描かれる短編集。
期待しすぎず干渉しすぎず、無理のない範囲で互いに支え合うような、他人同士でかつ3人という組み合わせが1番バランスが取れていて心地良さそう。
逆に言えば、家族を作るということはその期待や負担、そしてその期待を裏切ることもぜーんぶ腹くくって責任を持ち合うことなんだなぁ。良くも悪くも。
トータルしてとても気軽に読めて、少しフフっとなれる本。
ほっこりしたシロクマの表紙もかわいい。
ままならない愛の形|小説「殺戮にいたる病」
物語は、連続猟奇殺人犯が逮捕される場面から始まる。
逮捕の現場に居合わせた人物たち-殺人犯蒲生稔、稔の家族である雅子、稔を追っていた警察OB樋口-のそれぞれの視点から、過去に遡って稔が罪を犯しはじめてから現在に至るまでが描かれる。
犯人と、その手口と、その動機は割と早い段階で明かされるのだが…、
とにかく最後まで読めば間違いなく「ん何ーっ?!?」っとあっけにとられること間違いなし。
そして今作でやはりガツンと印象に残るのは、稔の行き過ぎたネクロフィリア(屍体愛好)だが、彼の思考を辿りながらその行為をトレースしていくと、それはただたんにぶっ飛んだ性癖であるというよりも、それが彼にとってのほんとうの愛の形であり、彼らしく被害者たちを大切にした結果なのだと納得しかけてしまうから恐ろしい…。
余談だが、ネクロフィリアといえば、中学生時代に読んだ「本当は恐ろしいグリム童話」が忘れられない。
純粋無垢な中学生には刺激が強すぎた…
そこにはハワイがつまってる|小説「まぼろしハワイ」
あれだけ蒸し暑くてイライラしてたのに、その気配が過ぎ去ろうとするとなんだか名残惜しくなる、夏。
なんだかその夏らしさを留めておきたくてたまたま目に留まった「まぼろしハワイ」。
タイトルどおり、本当に、あのハワイ独特のゆったりした感じや、風や海や木々が何かキラキラしたものを孕んでいる感じや、笑顔で全てを包み込んで許してくれる感じが濃縮還元されているような小説で、まさに読むだけでじっくりハワイに浸れるような小説だった。
3つの中編からなっているのだが、いちばん好きなのは、この本のタイトルにもなっている1つ目の話「まぼろしハワイ」。
特に、まるで世界そのもの、ダンスそのものに愛されているかのようなダンサーあざみさんの、まるで大輪の花が舞っているかのような、空気そのものが彼女を祝福しているかのような描写がとても美しかった。
3作全て、片親もしくは両親が幼い頃に居なくなってしまい、少し歪な家族関係を築いてきた20代の男女が、ハワイをきっかけに癒されていくもので、なんとなく印象が似通ってしまっているのが少し残念。あるいは、私の器がそれぞれの作品を味わい尽くせるまで熟していないのかもしれない。
ただ、何か大きなものを失ったときに読むと、きっと少し、おおらかなハワイが、そして世界が悲しみを少しだけ受け止めて、前に進む勇気をくれる気がする。
安定感あるミステリ短編集|小説「満願」
恥ずかしながら、たまたま古本屋で見かけるまで知らなかったのだけどなんかしらの文学賞3冠を取ったそうだ。
めちゃくちゃワクワクしながら手に取ってみたのだけど、冒頭の期待値が高すぎたからか、ちょっと物足りなかった気はする…
「羊たち」の、あの鮮やかなフィニッシング・ストロークが病みつきになってしまっているからか。
だけど何気なく配置された風景、小物のひとつひとつが最後に重要なカギとなっている伏線の張り方はさすが。
ただ単に謎解きだけではなくて、誰かを大切に思うことが事件のきっかけになったり、謎を解き明かすきっかけとして描かれているので、ひとの恐ろしさにひやっとするだけでなく、どこか少し温かみも感じる。
雪のように寂しさが降り積もる|小説「密やかな結晶」
だんだんと何かの記憶-例えばカレンダーやオルゴール-が消滅して行ってしまう人たちの物語。
しんしんと雪が降り積もるように、少しずつ何かを失っていく人たちの寂しさが積もっていく。
だけど、記憶をなくしていく人たちは誰も泣き喚いたり、怒ったりしない。ただ、だんだんと空洞が増えていくことに不安を感じていくだけ。なくなったものそのものを惜しみ、懐かしむ気持ちすら無くなってしまうのだ。
それはもしかしたら幸せなことなのかもしれない。だけどわたしには、とてつもなく悲しいことに見えた。
ゲシュタポを彷彿とさせる「秘密警察」による記憶狩りによって家や持ち物、時には大切な人を奪われても淡々と受け入れる。
そんな淡々とした「哀」に包まれた物語だからこそ、記憶を失うことができない人と互いに永遠に感情を分かち合うことができない苦しみや、えもいわれぬ不安の中でも温かな思いやりで包み込んでくれるひとの優しさが煌めいている作品。
太宰治の心の断片に触れる|エッセイ「もの思う葦」
太宰治が執筆活動を始めて間もなくから、彼が亡くなる前年までの間に各所に投稿された随筆をまとめたエッセイ集。
正直、読み始める前の太宰治イメージといえば
人間失格(大分前にうっすら読んだ
やたら心中を試みている
やたらいろんな女性にちょっかい出している
くらいであり(ファンの方ごめんなさい)、つまりは何も知らないからちょっと毛が生えた程度だった。
そんな私でもページを開いてみて、少し鳥肌が立った。
長く読み継がれる名作を残した人物が、
息遣いが聞こえるほど、
そこに、いる。
生きた証が焼き付けられている。
私は、実は太宰治について
俗世を憂いた厭世人か、
あるいはひとの気持ちを顧みない変人で、
自分とは全く違う世界が見えているのだろうと思っていた。
でも、このエッセイ集から感じたのは
必死に人から愛されたい、認められたい、売れたい、目の上のタンコブのように踏ん反り返っている先人達を見返したい、真実に正直に生きたい
でも、
売れなかったらどうしよう
面白いと思われなかったらどうしよう
誰も自分を愛してくれない
なによりも、美しく、正直に、真実に即して生きることのできない自分が、自分自身から愛されない。愛せない。だけど愛されたい。
そういうごくありふれた感情が迸っていた。
きっとこの点に関しては、様々文学的研究がなされているだろうから、あくまでいち素人としてこのエッセイを読んだ限りの感想でしかないけど、
誰よりも生を全うしようとして、でも自分の理想とする生に近づくことができない反動による絶望感が、彼にとって死を魅力的に見せていた1つの要因であるように思う。
収録されている随筆は、
彼の精神状態とリンクしてずいぶん文体が異なる。
初期の、文筆家として駆け出しの、
自信のなさと自己顕示欲とひもじさが入り混じったような一生懸命なのか投げやりなのかよくわからない感じ、
中期の、家庭を持ち少し精神的に安定してきた感じ(そしてもしかしたら、戦争真っ只中で死が身近にあることで逆に安定してたのかもしれない、とも感じる)、
後期の、作家として地位を築きながらも、戦争が明けて命の危機が去り、このまま何十年も生き、家庭を守り続けることに絶望していく時期。
最後の如是我聞などは、まるで場末の飲み屋でべろべろになった太宰の演説をその場で聞いているような臨場感だ。
ウィキペディアでもなんでもいいので、ぜひ太宰治の年表片手に読んでほしい。
魍魎とは境界なのだよ|小説『魍魎の匣』
昨年に続き、自分の中で夏季休暇の恒例となりつつある京極夏彦「百鬼夜行」シリーズ第2弾。
この厚み。
一般的な単行本3〜4冊分はあるであろうこのボリューム感だけど、冒頭1ページから最後のページまでほんとにずっと面白い。
信者から「汚れた金銭を浄化する」という名目で金を巻き上げているという霊能力者、四肢が箱に入れられて遺棄されたバラバラ事件、美しい少女達の逃避行と殺人未遂(?)事件、不老不死を研究する天才科学者…
ひとつひとつが濃ゆい話が、同時に絡み合いながら圧倒的な展開を見せていく。
それぞれの事件に<ハコ>が印象的な形で登場するが、なんといっても冒頭数ページで登場する、膝にのるくらいの匣にぴったりと収まった(?!)美しい少女が「ほう」と呟く場面。
「ほう」っていうのがまた、消えゆく命の灯火の最後の息吹のようで、儚いのになにかとても濃密で官能的な感じがした。
こんな描写を冒頭からガツンとくらわせられたらひとたまりもなく、すっかりとそのハコに魅入られたら最後、読者は妖しくて恐ろしくて美しい物語に一気に引き込まれてしまう。
複雑に絡み合ったそれぞれの事件を、古本屋であり神主であり陰陽師である京極堂が鮮やかに「憑物落とし」を決めて、それぞれの謎を解き明かしていく。
広げた大風呂敷をしっかり回収してくれるので、ストーリー展開はわかりやすい。
各々の形でハコに魅入られ、のめり込んでいってしまった者達は、結果としてさまざまな事件を巻き起こしてしまった。そしてその事件ののち、不幸に陥る者もいれば、本人にとってはこの上ない幸福な状態を手に入れた者もいる。
そしてそんな、何かに「魅入られて」しまい、通常では考えられないこと-例えば殺人-を起こしてしまうのは、【偶々】それを起こしてしまうことのできる【環境】が揃ってしまったからであり、誰にでも起こりうることなのだと京極堂は語る。
そんなバカな。
と思う反面、
美しい少女がみっしり詰まった匣を持った男を想像して、
私は、
酷く羨ましくなってしまった。