普通と特別の間でもがくすべての大人たちに|小説『田舎の紳士服店のモデルの妻』
図書館で、たまたま見つけたタイトル
<田舎の紳士服店のモデルの妻>
ダサさと自尊心が絶妙なバランスで込められたその単語の組み合わせが妙に気になって手に取ってみた。
都会育ちで美人、やり手営業マンと結婚して専業主婦となった梨々子が、夫の地元に移り住んでからの10年を綴った話。
はじめは不本意な田舎への移住に、ほんのりした屈辱や、田舎への見下し心を持っていた梨々子。
だけど子供たちや夫、そして近隣の住民たちとのやり取りの中で、これまで自分が「獲得」してきたもの、そして30代も半ばを過ぎた自分自身とは結局何者なのだろう、ともがきながら、徐々に自分、そして今自分がいるこの場所を真正面から見つめていく。
作家である宮下奈都さんの出身地であること、「見所が崖と海と寺しかないなにもないところ」であること、方言、などなどから、ほぼ間違いなく舞台は福井だろう。
私も福井出身なので、方言パワーもあいまり、「一度都会を経験している人間から見た田舎での暮らし」をとてつもない臨場感をもって体感することができた。
あらゆる娯楽の誘惑に溢れる東京での暮らししか知らない人からしたら
「休みの日になにしてるの?」
「お受験はどうするの?」
「地域の運動会とは」
などなど、その文化の違いはもはや外国とのそれと言っても過言では無い。
だけど、そんな「なにもない田舎」はむしろ日本のどこにでもある場所であり、「田舎で育ち都会で暮らす」多くの人にきっとこの田舎/都会の二項対立は深く共感できることだと思う。そして、梨々子は生まれ育ちが都会、という違いはあれど「もし、大人になった自分が地元に戻って暮らすことになったら…。」というもしかしたら選択しうる未来とも重なり、こそばゆいような、懐かしいような、少し怖いような感覚を覚えることだろう。
だけど、この田舎と都会の構造を通じて本作で描かれているのは、「私は誰とも違う」と思いたいながらも、だんだんと自分もいわゆる普通であることに気づきつつ、とにかく幸せでありたいともがき続けるすべての大人たちへのエールだ。
私はずっと、人生のレールはそれなりに真面目にやっていればずっと上へ上へと、キラキラした場所へと自然と伸びるものだと思っていた。
だけど気付いてみれば、いつのまにか思っていた場所より随分とこじんまりしているし、上に伸びていたはずのレールも、やけに低く、朴訥として地味なものであることに気づく。
だけどちょうど、ずっと上へ上へ走り続けることの意味も気合も薄れていくことも自覚し始めている。
地味なレールでも、側に生える名も知らない小さな野花やサビの風合いに愛しさを感じて、まあそれでもいいかと受け入れていくこと。
何処かにスタート、ゴールがあるのではなく、そして誰かにそう教えられたり称えられたりするのでもなく、誰かのレールに合流して引っ張っていってもらえるのでもない。
走っていようが、止まっていようが、逆走していようが、全てのレールそのものまるごとひっくるめて「私の」人生だと、どこにでもある田舎のどこにでもいるひとりの女性から、どこにでもいるような自分への力強いエールをもらった気がした。