大天才・四季の魅力がふんだんに詰まった一作|小説『有限と微小のパン』
ついにS&Mシリーズ最終作。
結構なボリュームがあったが、中弛みすることなく一気に読み進めることができた。
第1作目(といいつつ、実際の執筆された順序は4番目くらいらしい)「すべてがFになる」に登場した超天才・真賀田四季が再び萌絵と犀川に接近する。しかし当の彼女は追われる身であり、実際に姿を表すわけではない。一方で二人の周りで立て続けに殺人事件が発生。
果たして真賀田四季は、なぜ、どうやってこれらの事件に関わっているのか…?
四季のラスボス感あふれる存在感、人の認知に関する独特の見解、そして四季が生み出した、空間を無限に増幅させる装置などなど、四季ファンにはたまらない要素がてんこ盛りであり、さらにもうひとつ、最後に明らかになる四季のもうひとつの顔も、いい意味でめちゃくちゃギャップを感じさせる萌ポイントであった。
オマケで、萌絵が実は周りからちょっと浮いていること、家族という存在に飢えていることなどから、「普通になりたい、常識的な人間になりたい」と切望していたということもわかり、ちょっとだけ萌絵とも友達になれるかもしれない、と思えるようになったことも収穫だった。
ミステリのトリックとしても、S&Mシリーズの中では納得感があるほうでした。
「すべF」以降、ずっと食わず嫌いしていたS&Mシリーズを(飛ばし飛ばしながらも)通読した結果、
萌絵:すげー苦手→まあ、ちょっとイラっとするが子供っぽくてかわいいかな
犀川:なんかのらりくらりしててイラっとする→子供だからまあしょうがないか
四季:ちょっと怖いけど好き→かわいい!!好き!!
に変化したので、もしすべF以降離脱してしまった方は、頑張って読み進めてみるのをおすすめします!
(個人的には、詩的私的ジャック、有限と微小のパンあたりがおすすめ)
S&Mシリーズを何作か読んでいる人にだけおすすめする|小説「今はもうない」
森博嗣によるS&Mシリーズのうちの一作。
今回は、犀川はほぼ活躍しない(といいつつ、幕間や終盤にちゃっかりいい味を出しているが)、西之園家の持つ別荘地の隣の別荘で起きた殺人事件。
その別荘に遊びに来ていた紳士と、西之園のお嬢様が中心となって事件の謎に迫っていく。物語はこの紳士の目線から語られる。
この、西之園のお嬢様、いつも以上に鼻持ちならない感じだし、紳士のほうも、どこが紳士やねんと突っ込まずにはいられないほど中身は至ってシンプルにエロいおっさんなのでちょっと気持ち悪い。笑
しかも、これもS&Mシリーズではありがちな、謎解きはちょい強引に終わるので、結構読み通すのが辛かった。
ただ、最後の仕掛けには、これまでS&Mシリーズを読んできた身としてはクスッとなるのでその点があっただけでも救いである。
優しさが大切な人を傷つける|小説『きらきらひかる』
アル中で躁鬱の症状を抱える妻・笑子と、ゲイの夫・睦月の話。
笑子と睦月はお見合いで出会い、すぐに互いに「スネに傷がある」ことに気づき、利害関係が一致した2人は結婚することになる。
2人は夜を共に過ごしたことはなく、お互いに恋人を作っても良いという約束をしていた。現に、睦月には幼なじみでもある紺という恋人がいる。
だけど、笑子と睦月はとても互いを大切に思っている。
そんな、さっぱりとしてちょうど良さそうな関係であっても、笑子には睦月の優しさがつらく、「普通の幸せ」の型にはめようとする家族や友人、元恋人の存在が苦しい。
睦月は、笑子にも紺にも、家族にも誠実で素直であろうとすればするほど、大切なパートナーたちを苦しめる。
笑子の「紺が睦月の赤ちゃんを産めたらいいのに」という言葉が、彼女の睦月への愛と、自分は紺には勝てないという悲しみと、子供を産むという「普通」の幸せと自分たちの絶対的な距離への絶望が相まって、この物語を象徴しているように感じた。
笑子と睦月の心の機微が丁寧に描写されて、ひとを愛するということが透明なレースのように読んでいる者を包み込んでくれるような作品。
普通と特別の間でもがくすべての大人たちに|小説『田舎の紳士服店のモデルの妻』
図書館で、たまたま見つけたタイトル
<田舎の紳士服店のモデルの妻>
ダサさと自尊心が絶妙なバランスで込められたその単語の組み合わせが妙に気になって手に取ってみた。
都会育ちで美人、やり手営業マンと結婚して専業主婦となった梨々子が、夫の地元に移り住んでからの10年を綴った話。
はじめは不本意な田舎への移住に、ほんのりした屈辱や、田舎への見下し心を持っていた梨々子。
だけど子供たちや夫、そして近隣の住民たちとのやり取りの中で、これまで自分が「獲得」してきたもの、そして30代も半ばを過ぎた自分自身とは結局何者なのだろう、ともがきながら、徐々に自分、そして今自分がいるこの場所を真正面から見つめていく。
作家である宮下奈都さんの出身地であること、「見所が崖と海と寺しかないなにもないところ」であること、方言、などなどから、ほぼ間違いなく舞台は福井だろう。
私も福井出身なので、方言パワーもあいまり、「一度都会を経験している人間から見た田舎での暮らし」をとてつもない臨場感をもって体感することができた。
あらゆる娯楽の誘惑に溢れる東京での暮らししか知らない人からしたら
「休みの日になにしてるの?」
「お受験はどうするの?」
「地域の運動会とは」
などなど、その文化の違いはもはや外国とのそれと言っても過言では無い。
だけど、そんな「なにもない田舎」はむしろ日本のどこにでもある場所であり、「田舎で育ち都会で暮らす」多くの人にきっとこの田舎/都会の二項対立は深く共感できることだと思う。そして、梨々子は生まれ育ちが都会、という違いはあれど「もし、大人になった自分が地元に戻って暮らすことになったら…。」というもしかしたら選択しうる未来とも重なり、こそばゆいような、懐かしいような、少し怖いような感覚を覚えることだろう。
だけど、この田舎と都会の構造を通じて本作で描かれているのは、「私は誰とも違う」と思いたいながらも、だんだんと自分もいわゆる普通であることに気づきつつ、とにかく幸せでありたいともがき続けるすべての大人たちへのエールだ。
私はずっと、人生のレールはそれなりに真面目にやっていればずっと上へ上へと、キラキラした場所へと自然と伸びるものだと思っていた。
だけど気付いてみれば、いつのまにか思っていた場所より随分とこじんまりしているし、上に伸びていたはずのレールも、やけに低く、朴訥として地味なものであることに気づく。
だけどちょうど、ずっと上へ上へ走り続けることの意味も気合も薄れていくことも自覚し始めている。
地味なレールでも、側に生える名も知らない小さな野花やサビの風合いに愛しさを感じて、まあそれでもいいかと受け入れていくこと。
何処かにスタート、ゴールがあるのではなく、そして誰かにそう教えられたり称えられたりするのでもなく、誰かのレールに合流して引っ張っていってもらえるのでもない。
走っていようが、止まっていようが、逆走していようが、全てのレールそのものまるごとひっくるめて「私の」人生だと、どこにでもある田舎のどこにでもいるひとりの女性から、どこにでもいるような自分への力強いエールをもらった気がした。
アンディとの宝物のような時間を見事にウッディの次の人生へ昇華させた|映画『トイストーリー4』
公開直後、ヤフーレビューが大荒れした、ということだけ小耳に挟んでいたことにより、もし自分もがっかりする内容がどうしよう。。。とずっと二の足を踏んでいた本作。
結論、
傑作でした。
いやもう、声を大にして言いたい。
トイストーリーは、4を持って結末を迎え、そして新たに始まるのだと。
※以下、ネタバレを含みます。
1で、バズの登場により、アンディのお気に入りNo.1の地位から転落するウッディ。バズに嫉妬して、アンディからもそっぽを向かれて、それでもカッコ悪い自分を直視出来なかった。それでもバズとの友情や、例え1番じゃなくても、様々なで子供を幸せにする形があると学んだ。
2では、ジェシーとの出会いで、おもちゃは子供の成長による別れは絶対に避けられないこと、それでもショーケースに飾られたまま眺められることではなく、ひとりの子供を幸せにすることを選んだ。
そして3では、10年以上共に愛し、愛されてきたアンディは大人になり、ウッディは彼についていくことではなく、仲間と共にボニーという次の子供を幸せにすることを選んだ。
しかしこの3でも、これまでの流れを振り返ってみると、「いつか子供は大きくなる」「大きくなったらおもちゃのことを考える時間はなくなり、おもちゃは不要になる」という運命から逃れたことにはならず、そこはかとない疑問は置き去りになっていた。というかそんな評もあくまで4を見たからそう感じるのであり、3で終わっていてもそれはそれでハンパじゃない逸品であったが、4が作られたことで、更に大きなパラダイムシフトが起きた、いや起き得たのだ、と気づかされた。
長々と書いてしまったがようやくここから4の話。
4の、その最も賛否両論(本国では総じて高評価が多いらしいけれど)が巻き起こっているのは、その結末。
最後にウッディが選んだのは、仲間と共にボニーの元へ帰るのではなく、ボーと共に、「持ち主」を持たない道だった。
これまで、ウッディはずっとおもちゃの幸せは子供を幸せにすること、特に「持ち主」である子供を幸せにすることだ、と、自分にも周りのおもちゃにも説いてきたのだから、それを裏切られたと感じるのもわからんでもない。
しかし!!!!!!やはり私は力強くウッディの決断を応援したい。
遊び相手として選ばれず、ボニーの部屋のクローゼットでウッディがホコリを被っているシーンがあるが、アンディのもとにバズがやってきた時と決定的な違いがある。
それは、ボニーにとってウッディが、そしてウッディにとってボニーが、特別な存在ではない、ということだ。
持ち主である子供を幸せにすることがおもちゃにとっての1番の幸せだと説けたのは、ウッディがアンディにとって特別であり、ウッディにとっても特別だった。
そんな時間を10何年も持てたこと、そしてそんな特別な時間を、アンディから捨てられるのではなく、「自分自身の判断」で終わらせることができたウッディは、もはや奇跡のように恵まれた存在だ。
そんな特別すぎる宝物のような思い出を持ったウッディは、このままボニーのもとに残っても、そしてボニーの「次」の子供の元でも、アンディとの思い出に執着してしまっていたのではないか。その片鱗は、仲間たちが止めても必死にフォーキーを助け出そうとした時、ボーに言われた一言にも現れていたように思う。
「それはボニーのためじゃない、あなた自身のためでしょう。」
…きっつー。これはキツい一言です。
持ち主のお気に入りになることも、そして仲間のリーダーシップをとるというこれまでの成功体験も通用しなくなてしまったウッディが、フォーキーの子守という役割に必死にしがみつこうとしていた様はとても見ていて辛かった。
そんな状況の中、広い世界へ飛び出し、自立的にイキイキと暮らすボーに再び惹かれつつ、ボニーや仲間の元に戻ろうとするウッディ。
しかし、その途中にある出来事が起こる。
それは、誰にも遊んでもらったことのないアンティークおもちゃのギャビーギャビーが、ひとりの子供に見つけてもらえるよう手助けする場面だ。
ウッディたちの助けもあり、無事に女の子と共に去るギャビーギャビー。
まだ、子供を愛し、愛されたことのないおもちゃたちに、持ち主との出会いの機会を与えること。自分もアンディとの大切な時間を作ったように、今度はたくさんの子供、おもちゃたちにそんな時間を作ってもらうこと。
これは、まさにウッディだからこそ、ほんとうに自分のやりたいこととして見つけることができた道だと思う。
そして、ウッディを迎えにやってきたバズの言葉。
「彼女は大丈夫。ボニーは、大丈夫だ。」
くぅーーーー!!!!
今回あんまり活躍しなかったバズだがそんなことどうでもいい。
これまでずっと、1番側でウッディを見てきたバズ、ウッディが心から信頼する友であるバズにそう言ってもらえたことで、まだ区切りをつけきれなかったウッディの呪縛が解かれたのだ。こんなに重要な仕事が他にあろうか。
そして映画の最後の最後、ウッディとバズが呟く言葉も至高。
遠ざかるボニー家の車に乗るバズ「無限の彼方へ…」
メリーゴーランドから車を見守るウッディ「さあ行くぞ」
うぉああぁあぁ!!!!!
(涙腺崩壊)
(大地に膝をつく)
(鼻水ズルズル)
(拳を床に叩きつける)
…ほぼ放心状態…。。
あっ、凄く蛇足かも知れないが、吹替版にチョコプラが起用されていたのは意外と好き。
ベストオブ人生で一度は思いつきたいタイトル|小説『封印再度 who inside』
一度聞けば忘れないそのタイトル
封印再度 who inside
漢字と英字、読み方が同じばかりか、物語の主要な謎をそれぞれ表しておりまさに秀逸。
決して取り出せない鍵が入った壺、天地の瓢と、その鍵がないと開けることができない無我の匣。鍵はどのように取り出し、そしてどうやってまた壺にいれるのか。
そして密室の蔵で死んだ画家。
彼は自殺か他殺か。開かなかった蔵には誰がいたのか。
正直なところ、前者のトリックは面白かったが、後者はかなり強引…。
ミステリのようなものが必ずしもミステリとして成立させる必要はない、という作者の主張が聞こえてきそうだ。
そしてもうひとつ、本作では犀川と萌絵の関係性がまた大きく変化を見せる。
前作は萌絵の幼さが炸裂していたが、今作は2人ともその傾向が強く出ている。
なんかもう、青春マンガを読んでいるようだ。
イラつきを乗り越えて、ほんとにこいつらしょーもないな。。。と生温かい目で見守れるようになりたい。
犀川&萌絵の大学生活と成長を楽しむ|小説『私的詩的ジャック』
森博嗣による、
大学助教授犀川と大学生萌絵が謎解きに挑むS&Mシリーズの第4作。
※以下、軽くネタバレを含む。
大学を舞台にした密室での連続殺人に、萌絵のスーパー好奇心で首を突っ込み、萌絵からの情報で犀川が半ば安楽椅子探偵のように謎を解いていく。
密室のトリックは、作中でもそう言っているがギークすぎる手法なので、ある程度の専門知識がないと思いつきすらしないし解説されてもあんまり理解できない。
「どうやって密室を作ったか」ではなく「なぜ密室を作る可能性があったのか」そして「誰がやったのか」を考えながら読んだ方が良さそうだ。
しかし個人的には、読んで良かったと思える大きな理由が別にある。
実は昔から、このS&Mペア、特に萌絵が本当に受け付けなくて(といっても「すべてがFになる」しか読んだことがなかったが…)、それ以降のS&Mシリーズに全く手が伸びなかったのだけど、先日久々にすべFを再読したところ、かなり意識して萌絵の幼児性というか、子供がすごく背伸びをして大人っぽく振る舞っているように描かれていることに気付いたのだ。
そこで、もしかしたら少し萌絵に共感できるかもしれない、と初めてすべF以外に手を伸ばしてみた。
「詩的私的ジャック」は舞台が2人の所属する大学が関連する事件ということもあり、犀川と萌絵の大学生活や、普段の交友関係もしっかり描かれている。
そこでは、世間知らずの超お嬢様として同級生から少し遠巻きにされている萌絵や、雑務が増えることを嫌がってスピード出世を躊躇なく断る犀川など、すべFでは圧倒的な思考力を持つ人物として描かれていた2人が、日常では好むと好まざるとに関わらず、いわゆる「浮いた存在」であることや、そしてそんな自分を理解し、客観視している犀川≒大人に、これまで自分が甘えていたことをようやく自覚した萌絵がちょっとだけ近づいている様子が見れたことは、なんだか自分自身も成長できたようで少し嬉しい。
こんな風に、数年越し、数十年越しに同じ作品を通して違う読み解き方ができるようになることに気づけるのは、読書という趣味が人生に与える大きな影響のひとつだと思う。