太宰治の心の断片に触れる|エッセイ「もの思う葦」
太宰治が執筆活動を始めて間もなくから、彼が亡くなる前年までの間に各所に投稿された随筆をまとめたエッセイ集。
正直、読み始める前の太宰治イメージといえば
人間失格(大分前にうっすら読んだ
やたら心中を試みている
やたらいろんな女性にちょっかい出している
くらいであり(ファンの方ごめんなさい)、つまりは何も知らないからちょっと毛が生えた程度だった。
そんな私でもページを開いてみて、少し鳥肌が立った。
長く読み継がれる名作を残した人物が、
息遣いが聞こえるほど、
そこに、いる。
生きた証が焼き付けられている。
私は、実は太宰治について
俗世を憂いた厭世人か、
あるいはひとの気持ちを顧みない変人で、
自分とは全く違う世界が見えているのだろうと思っていた。
でも、このエッセイ集から感じたのは
必死に人から愛されたい、認められたい、売れたい、目の上のタンコブのように踏ん反り返っている先人達を見返したい、真実に正直に生きたい
でも、
売れなかったらどうしよう
面白いと思われなかったらどうしよう
誰も自分を愛してくれない
なによりも、美しく、正直に、真実に即して生きることのできない自分が、自分自身から愛されない。愛せない。だけど愛されたい。
そういうごくありふれた感情が迸っていた。
きっとこの点に関しては、様々文学的研究がなされているだろうから、あくまでいち素人としてこのエッセイを読んだ限りの感想でしかないけど、
誰よりも生を全うしようとして、でも自分の理想とする生に近づくことができない反動による絶望感が、彼にとって死を魅力的に見せていた1つの要因であるように思う。
収録されている随筆は、
彼の精神状態とリンクしてずいぶん文体が異なる。
初期の、文筆家として駆け出しの、
自信のなさと自己顕示欲とひもじさが入り混じったような一生懸命なのか投げやりなのかよくわからない感じ、
中期の、家庭を持ち少し精神的に安定してきた感じ(そしてもしかしたら、戦争真っ只中で死が身近にあることで逆に安定してたのかもしれない、とも感じる)、
後期の、作家として地位を築きながらも、戦争が明けて命の危機が去り、このまま何十年も生き、家庭を守り続けることに絶望していく時期。
最後の如是我聞などは、まるで場末の飲み屋でべろべろになった太宰の演説をその場で聞いているような臨場感だ。
ウィキペディアでもなんでもいいので、ぜひ太宰治の年表片手に読んでほしい。