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ゆる読。

気が向いたときに小説やらの感想を残すブログ。ほっこり系、ミステリが主。

だから、私は本を読む

私にとって、本を読むということ

転職を考え始めた時、どういう状態なら自分は幸せか?を真剣に考えた。

 

仕事は?

 

結婚は?

 

住む場所は?

 

お金…?愛…?

 

酒と、泪と、男と、女…?

 

 

うーん、よくわからん。

 

ていうか、どれも積極的に自分が幸せになるために獲得しに行きたいもんでもないんだよな。できることなら一日ごろごろして本読んでたいし。

 

 

あ、そういうことか。

 

 

というわけで、究極、ある程度の衣食住が満たせたら、あとは図書館が存在してたら割と一生幸せに生きていけるかも。そう思える自分、かなり幸せかも。という謎の気付きを得た。

 

 

図書館まじ最高。ありがとう。

 

 

 

本を読むことで得たこと

もし子供ができたら、日々触れる情報がどんどん文字から映像に移り行く昨今ではあるものの、やっぱり本を好きになってくれたらうれしいと思う。

 

想像することは自由だということ

 文字はただの記号であり、その組み合わせによって情報を生み出すわけだが、とはいえそこに込められた意味の読み解きや、文字の組み合わせで語られる風景や人物像等、読む人の想像に依存する部分が多い。

それはつまり一人ひとりに与えられた絶対不可侵の領域で、そこには人間の数だけの自由があるということを教えてくれる。

 

当たり前なんてことはそうそうないということ

 本を読むことで、本当に様々なことを知ることができる。

他の人はどんなことを考えているのか、人類が生まれてから一体どんな歴史が刻まれてきたのか、自然とはなんと力強く、不思議なものか。

 自分が見えていること、感じていることはいかに局地的であるかを突き付けられ、この世に「当たり前」といえることは、実はものすごーく少ないということに気づく。

そこへの気づきは、様々な場面で自分を許すこと、他人を許すことに繋がってくると思う。

 

一生かかっても消費しきれないほどの書物が存在しているということ

時を超えて国を超えて、無限といっていいくらいに書物は存在していて、さらに現代は時間や場所に縛られず、その多くに触れることができる環境が整っている。

ちっぽけな一人の人間には到底消費しきれない、広大な本の海が広がっているのだ。

その広大さに気づいたとき、「まー、最悪本読んでれば自分幸せだしな。」と、人生に対してある意味割り切りができる。

 

 読んできたことは、血となり肉となり私を作る

小さい頃から本を読むのが大好きで、小学校の頃は確か、【学校で一番本を借りている人】の称号をほしいままにしていたような気もするし、放課後の思い出は、大体市の図書館で本を借りて、図書館の前にあるちょっとした木の茂みの中で本を読んでいたことな気もする。

 

お気づきかとは思いますが、まあ友達は少なかったですね。今も少ないけど。

 

 

 

 これまで、結構な量の本を読んできたと思っていた。

ある日「これまで読んできた本を棚卸してみよう」と思い立ったものの、

 

 

…思い出せない。

 

 

…いや、ぜんっぜん思い出せない。

 

 

これまで立っていた足場が、実はスッカスカであったと知った時のような心許なさに急に襲われた。

これはイカン、ということで、世界の片隅でひっそりと、読んだ本の感想をブログに残すということを始めている。

半年くらいゆるゆると続けているが、書くペースは自分の心の余裕と比例していて面白いし、誰にも配慮せずに考えを言葉にするのも、結構落ち着くもんだなと感じる。

 

 

目下、これまで誇りを持ってきた”視力”の低下は非常に不安であるものの、

そんなわけで、私はこれからも本を読み続けたいと思う。