ハダカの心で互いに向き合う|映画『最強のふたり』
のっけのシーンからグッと心を掴まれた。
夜の道を、2人の男性がドライブをしている。運転してるのは黒人の若者、助手席に座るのは白人の老齢男性。
白人男性は、硬い表情で流れる街並みを無言で眺めている。
そして何度も、助手席にすわる男性の様子を伺うように視線を送る黒人男性。
ここまでセリフが一切ないんだけど、
この黒人男性の視線が、んめっちゃくちゃに、
優しい。
問いただすでもなく、気を回して無理やり元気付けるでもなく、哀れむでもなく、ただただまるごと包み込むような表情で、この時点ではふたりがどんな関係なのか、なにが起こったのかは全くわからないのだけど、2人に確かな信頼関係があることだけはわかった。
というか冒頭数分のこの描写だけでここまで感じさせる表現力、半端じゃない。
ストーリーはこの運転のシーンから切り替わり、2人の出会いまで遡っていく。
白人男性フィリップは全身不随の大富豪で、黒人男性ドリスはその世話係の面接に就職活動証明書目的に来た貧困層の若者だった。
その無作法だけども素直な彼を気に入って、フィリップはドリスを雇うことにする。
思ったことはシンプルに口にするドリスの言動は見ていてハラハラするが、それがむしろ心地よい。なぜならフィリップもとても嬉しそうだからだ。
例えばこんなエピソードがある。
うっかりドリスが熱い紅茶をフィリップの足にこぼしてしまうが、フィリップは感覚がないのでそれに気づかない。
そのことにビックリしたドリスはこう思う。
「たまげた!」
そこで楽しくなっちゃったドリスは、熱々のティーポットをフィリップの足に当ててみたり、ついには紅茶をドボドボとフィリップの足にかけてしまう。それに気付くフィリップと、ドリスの先輩女性看護師。
フィリップ:満足したか?
ドリス:感じないの?
女性介護士:なにしてるの!
フィリップ:実験。
焦る看護師をよそに、フィリップもいたずらする側にちゃっかり回っていたりする。
介護士と介護される側、というある種の上下関係ではなく、たまたま体が動かないヤツと、たまたまそいつの近くで一緒に暮らしてるヤツ、っていう感じで、なんだかすごくお互いが自然体なのだ。
フィリップもドリスも、自分を自分として付き合ってくれる人をずっと探していたんだと思う。
ドリスの実の両親は早くに亡くなり、叔父叔母に養子として引き取られ、育てられた。血の繋がらない兄弟たち、夫と別れ1人で沢山の子を育てるために必死で働く叔母。居場所のないドリスはいつしか街のゴロツキたちとつるむようになり、犯罪にも加担していた過去があった。そのことから、他の子供たちに悪影響を及ぼさないでほしいと、叔母からはもう家に来るなと言われてしまう。
叔母は決してドリスに愛情がなかったわけではなく、ドリスに決別を言い渡した後は涙を拭い、ドリスも自分の思いを言葉にする術がなく、なにかを言いたそうな表情をするも、出ていくしか他はなかった。
そしてフィリップも、確かな地位と財力があるのに、自分では食事を取ることさえ、排泄することさえままならない。1人では生きていくことができない。きっと周りの人間全てから、どこか哀れみのような色、あるいは顔色を伺いあわよくば金銭的見返りを得ようとする打算的な色を感じ取ってしまっていたんだと思う。
フィリップが文通相手から写真が欲しいと言われた時、車椅子の映る全身写真を送るはずが、直前になって上半身だけの写真にこっそりかえるシーンは、フィリップの寂しさや、自分自身への恥ずかしさ、受け入れてもらえないんじゃないかという恐れが溢れていたようにおもう。
そんな二人が出会った、自分を自分として、レッテルや経歴のフィルターを外し、生の人間として接してくれる相手。
大人になるにつれ、シンプルに友だちってやつを作るのが難しくなるのは、ややこしいいろんなラベルを自分にも相手にもペタペタ貼りながら人生を積み重ねることが多いからだろう。
いい時も悪い時も、なんも言わずそばにいてくれる友だちがいる。
そういう幸せを噛みしめられる作品。