ある美容室に行ったら本好きにとっての楽園だった話
世田谷に引っ越してきてから一ヶ月半が経った。
家から駅に向かう途中、いつも目に留まっていた看板があった。
「本と髪」
大正モダンな感じの黒髪少女が手に本を持つイラストとともにそう書かれた看板は、本好きの心をくすぐるには充分すぎるものだった。
そろそろ髪を切らねばと思った折、満を持して「本と髪」でググってみると、正式な店名は「文学堂美容室 retri」のようだ。
https://www.retri-bungakudo.com/
『本を愛する人が、機嫌良く次に向かえるように』
文学堂美容室retri(レトリ)です。
髪と心のデザインができるよう、日常から離れて、気分転換に、何かのヒントを見つけられるような場所を目指します。
本に囲まれて、リセットする時間をお過ごしください。
行かなければなるまい。はっきりとそう思った。
いい具合に風合いを帯びた、白のアンティーク調のデザインの店の扉は、看板の雰囲気としっくり合っていた。
はじめての美容室に足を踏み入れる瞬間というのは少なからずどぎまぎして尻込みするが、今回はこころなしかワクワクした心持ちでその美容室の扉を開けた。
出迎えてくれた店長さんはめちゃめちゃしっとりして落ち着いた低音ボイスで、一発で「あ、この人絶対本大好きだ」とわかるこれまたいい感じの雰囲気を醸し出していた。
そして何よりも、入ってすぐに目を奪われるのは店を埋め尽くすくらいの本棚と、本、本、本…!!
天井近くまである本棚が3席分の個室スペースを作り出していて、客は本棚にぐるりと囲まれた状態で本やマンガを読みながら髪を切ってもらう事ができる。
置かれている本のジャンルは自己啓発書からミステリ、エッセイ、恋愛もの、ノンフィクション、マンガ、と結構幅広い。
入り口から入ってすぐ、正面の本棚には「今月のRECCOMEND」コーナーがあり、そこには私も大好きな小川糸さんの「ツバキ文具店」が置かれていた。
確かな信頼感を感じながら、席に着く前に存分に本棚をじっくり見回り、結構色々悩んだが読んでみたい本を手にとって席についた。
手にしたのは近藤史恵さんの『ときどき旅に出るカフェ』。いかにも私が好きそうなタイトルだなと思いつつも、目にとまった直感は信じるようにした。
本を選び席に着くと、店長さんがソーシャルディスタンスを保ちながらやってきてこう訪ねた。
「結構本はお好きですか?」
「はい、大好きです。」
まるで1編の小説の始まりのような出だしから、10分近く本談義が始まる。こうやって、誰かと本を読むことについて落ち着いて話すことなんてとんとなかったなあ、と思いながら、「これからこの空間で本が読めるのだナア」と気持ちも高まっていく。
ひとしきり本に囲まれる幸せについて語り合った後、「そういえば今日はカットですよね」とようやく髪の話にはいっていく。
改めて気づいたのだが、美容室って実は本を読むには非常に快適な空間だ。
まずなんと言っても椅子。長時間座ることを想定して設計されているから、腰も疲れにくい。更に、あの雑誌とかを読むように膝に載せるクッション。あれも手元にあれば首肩もあまり疲れずに読み続ける事ができる。そして目の前には丁度いいコーヒーテーブル代わりのカウンター。ここに読みたい本やマンガを積んでおいて、いつでも手に取れる。しかも周りはぐるりと本棚に囲まれているから、目線も全然気にならない。
もちろん後ろにはカットしてくれている店長さんがいるわけであるが、集中し始めるともはやそよ風が髪をなででいるな、くらいの感覚になってきて全く気にならない。
しかも、ちゃんと店長さんが入れてくれたコーヒー付き(これがまた美味しい!!)。
そして、店内にはとても控えめなボリュームでまったりしたカフェBGMが流れていて、よくよく耳を澄ますとアンティークの時計が刻む、コチ、、コチ、、コチ、、という秒針の音。
最高かよ…。
髪を切る時間とは、これほどまでに贅沢なものに昇華できるのか!!!
「最近、出かける人も少なくなってて時間があるので、本読むのが捗っちゃって。。フフ。。」と嬉しそうな店長さん。
店長さんいわく、下北沢には古本屋や本を読むのにもぴったりなカフェが沢山あるとのこと。
引っ越してわりかしすぐに緊急事態宣言が出てしまったのだが、それが明けたときの楽しみがまた増えた。
「必ずまた来ます」と力強い言葉を残し、とても満たされた気持ちで私は店を後にしたーーー。
追伸
ちなみに、結局『ときどき旅に出るカフェ』はほとんど読むことができなかった。
本談義中に目に止まった『ミステリと言う勿れ』というマンガについて「あれ面白いですよね」と店長さんに伝えたところ、「面白いですよね…同じ田村由美さん作の『BASARA』読みました?これも読み始めると止まらないんですよ…」と、いそいそと1巻を持ってきてくれたからだ。
うわー!前々から読みたかったけど一度手を出したら止まらんやつー!!と心で叫びながらまんまと読み始めてしまい、すでにAmazonで全巻セットを注文済みである。