何に従って生きるのか?|小説『ヘヴン』
同級生からいじめを受ける「僕」が主人公。
ある日、同じクラスのコジマから手紙を受け取ったことがきっかけでコジマとの交流が始まる。
そしてコジマも同じく、同級生たちからいじめを受けているのだった。
コジマは、「僕」がコンプレックスに感じていた斜視を「美しい」という。
ある時コジマは、「僕」にこう問いかける。
「なんで私たちは、抵抗しないんだと思う?」
「僕が、弱いからだと思う」
「君も私も、ただ従ってるわけではないんだよ。受け入れてるのよ。」
「私たちは弱いかもしれないけれど、わたしたちはちゃんとしっているもの。私たちは、何が大切で何がだめなことなのか。」
「君のその方法だけが、今の状況の中でゆいいつの正しい、正しい方法だと思うの」
一方、「僕」をいじめるグループに属する百瀬はこう「僕」に言い放つ。
「いじめることに意味なんてない、ただやりたいと思ったから、たまたま近くにいたお前が標的になっただけ。」
「なぜ抵抗しないんだ?したいならすればいい」
同じクラスの二人の人物の言葉が、まるで天使と悪魔のように「僕」をさいなむ。
クライマックスシーンで
加害者である同級生から服を無理やり脱がされていた「僕」、
それに対して自ら服を脱ぎ、加害者たちに無言で対峙するコジマ。
加害者の大部分はコジマに恐れをなして逃げ出すが、主犯格の男は口元に笑みを残した
まま。
この事件をきっかけに、「僕」はコジマともう会うことはなくなった。
コジマと百瀬の主張は最後までケリをつけられることがないまま、読者への宿題として投げかけられる。
正直、百瀬の言うように「やりたいと思うからやる」ことができたら、どれだけ楽かと思う。大小様々な鎖でがんじがらめになって、動けなくて悶々とする日々を送る自分からしたら、、とても羨ましい。
だけど、こうありたい、死ぬ時に後悔しない生き方はコジマの方だ。やはりそこには、百瀬の主張にはない美しさがあると私は思う。そして数年後、このブログを振り返った時に同じように思っていたいし、少しでもそうやって行動したことが積み重なっているといい。
だとしたら、ブログを書き続けている意味があるってもんだ。
最後の、斜視を手術で治すかどうか迷っている主人公にかけた義母の言葉は心地よかった。
「目なんて、ただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ。残るものは何をしたって残るし、残らないものは何をしたって残らないんだから」
そして、あれだけ「僕」の中では重たい十字架のようにのしかかっていた斜視を治す手術は、たった1万5千円、一日入院で治すことができ、それでもって医療の現場では新人が担うほど簡単な手術だというのだから、あっけないものだ。
自分ではとんでもなく重たいと思っていた荷物は、自分が重たくしていただけということは意外とあるのかもしれない。