大きすぎる危機は、足元まで来ないと気付かない|小説『小さいおうち』
東京の裕福な家庭で女中として働いていた「タキ」が、晩年に当時の暮らしの記憶を辿るお話。タキにとって、最も深く忠義を尽くした「平井家」での日々が綴られる。
ものすごく不可解な事件が起きたり、泥沼の愛憎劇があるわけではない。
あくまで、タキの女中としての日々の細やかかつ半歩先を読む仕事ぶりや、タキの女中としての矜持、そして、本人は自覚しない、だけど確実にはぐくまれていく密やかな愛情の描写が続く。
それなのに飽きずに一気に読み通すことができたのは、その時代背景によるところが大きい。
タキが平井家に奉公していたのは、昭和10年代。第二次世界大戦前後の頃だ。
当時の日本人の暮らしと言論の変化が、女中らしい、とても地に足のついた形で表現されている。
例えば昭和16年の12月は、タキはこんな風に振り返っている。
「アメリカと戦争が始まって何がよかったって、世の中がぱっと明るくなったことだ。ちょこっとばかり食べ物は貧相に張っていたけれども、足りないほどではなかったし、南方のゴム会社の株や何かがどんどん上がっていって、それで大儲けした人なども出て、町が少しにぎやかになり、人々も穏やかになった」
ちょうど日本が真珠湾を攻撃し、アメリカとイギリスに宣戦布告した頃だ。
私たち世代と、戦争というものの捉え方が大きく違っていたことや、
徐々に厳しくなる食糧難や軍事教育、贅沢を敵視する風潮。
だけど、そんな状況下でも楽しみを見出して、営みを続けていく人々。
…そして、暴力的に突然訪れる別れ。
徐々に以前のような暮らしができなくなり、だけど何とかその中でも楽しく暮らそうと知恵を凝らす。着実に巨大な影は自らの足元に近づいていることに気づきつつも、どこか対岸の火事のような心持で。
図らずも、まさにこのコロナ禍のようで背筋がムズムズした。
数年後今を振り返った時、「あの頃は気楽だった…」なんてことにならないように切に祈る。